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豊かさの真髄は「ていねいさ」にあり!

●豊かさの真髄は「丁寧さ」に有り!

さて、七日目のテーマは、「丁寧さ」です。

実は私がこの「丁寧」と言う言葉を自分の言葉として使えるようになったのは、つい最近のことなのです。数ヶ月前に、私は前にも述べた「香りの新製品」の企画の勉強のために、アロマオイル・マッサージというものを初めて体験してみました。

友人の紹介で行ったそのアロマ・サロンは、閑静な住宅街の中にあり、場の雰囲気もとても良く、また店主の女性も品のいい方でした。

さて、アロマオイル・マッサージは肌に直接アロマ・オイルを塗布して行います。

肩と背中だけの40分のショート・コースを受けていて、私は女性の施術者のその確かなストロークに驚きました。非常に確かに、的確に私のからだの凝りをほぐしていくのです。あまりの気持ち良さに、しばし意識を失いました。

「随分長くやってくれるな~。60分はしてくれているな~。これは大分得をした…」

そんな風に思いながらマッサージを受け、終わってから時計で時刻を確認すると、40分しか経っていないのです!時間の感覚が狂ってしまうほど、充実した時だったのでしょう。

服を着てマッサージ・ルームから出ると、店主がハーブ・ティーを用意してくれていました。

「いやー、素晴らしい!凄く気持ち良かったです。本当にくつろぎました」

そう私が言うと、その店主は

「ええ、うちのマッサージをやる女性たちはみんな本当にマッサージをするのが好きなんで

すよ…」

と笑顔で答えました。しかし私は、「これは、好き、とか一生懸命とかそんなコトバで片付けられるものではないな…」と思いました。

その時のマッサージで感じた感覚を反芻してみると、私の中から「丁寧」というコトバが浮びました。そう!物凄い丁寧さが、そのマッサージにはあったのです。

では「丁寧さ」とは何か?

そう私は自分自身に問いかけました。

すると浮かんできたのが「丁寧さとは、真心と確かな技術によって構成されている」というコトバでした。

いくら真心があっても、それだけではあのマッサージはできません。そして単に技術だけでも、あれほど短時間で深い癒しはもたらされなかったでしょう。

そしてさらに私の中にやってきたのは「豊かさの真髄というのは、丁寧さなんだな」という理解でした。

もしも何かいらいらしていたり、落ち着かなかったり、がさつだったりしている時は、私たちの内面は貧しいのです。たとえどんなに物質的に恵まれていても、大金持ちであっても、丁寧であれないとしたら、そこには豊かさはありません。

人や物に丁寧に接すること、そこに味わいが生まれ、気づきやビジョンがやって来るし、生きることの意味にも出会えることでしょう。

力みや焦りがあるところでは、私たちは丁寧であることができないのです。

●丁寧さの喪失―目標実現の落とし穴

七日目のテーマは「丁寧さ」です。

私たちが目標実現へと意識を向ける時、最も注意しなければならならい落とし穴が、この丁寧さの喪失なのです。目標を達成することを優先する余り、私たちは自分の周囲の人間や物に対する丁寧さを失い、傷つけてしまいがちです。

それ故、敢えて再度、六日目に書いた「未来成就の手紙」を書くのです。

もう一度、丁寧に、昨日アクセスした未来の自分と向き合ってみる。そうすることで、さらに確かな情報や気づきが、未来からもたらされます。

実際に私自身、同じ未来の自分に対して二回手紙をかいてみたところ、かなり焦点が定まりました。初日に書いた時はまだうすぼんやりとしか感じられなった未来の自分の姿が、次の日には輪郭がはっきりと感じられ、より的確で詳細なメッセージが得られたのです。

●意識とは何か?―からだを張らない限り、意識は変わらない

さて、「意識が変わることが重要だ」と言う人は多いですね。

しかし意識っていったいなんでしょうか?「意識を変えろ!」「意識しろ!」という表現は多いですが、その意味が「いいイメージを描け!」「悪いことは考えるな!」「積極的であれ!」といったところで使われている場合が大半以上だと思います。しかしイメージ・コントロールが果たして意識なのでしょうか?

私は、「意識」というのは「全体」「トータル」といった言葉と関係していると思います。

全体で物事に関わらない限り、つまり身体を張らない限り、意識は変わらない。意識を変えたい、或いは意識を働かせたいと思ったら、身体を張ることが必要なのです。

●からだを張らない限り、真実は見えてこない

私の師、松永修岳は組織宗教を否定しています。

「個人の宗教は必要だ。密教とは本来個人が開花するための技術体系だ。布教は間違っている。どんなに正しいことでも押し付けることは間違いだ…」

このように常に語っている松永師が、ある講義の中で次のように語りました。

「密教寺院には密教はない。寺の坊さんたちは、密教という素晴らしい宝物がいっぱいあるのに、それらを全く理解もしていないし、使ってもいない」と。

その数日後に私は十数年前に製作された弘法大師空海の生涯を描いた「空海」という映画のビデオを見ました。

比叡山延暦寺を開いた最澄という高僧が空海にあるお経を「貸してくれ」と頼みます。しかし、空海は「密教は文字やコトバだけでは学べない」と言って、最澄の頼みを断ります。

そのすぐ後のシーンで空海は弟子たちに向かってこう言います。

理趣釈経に曰く。

目で見る。何を見るのか、外の景色を見るのではない、己の内側を見るのだ。

耳で聞く。人の声を聞くのではない。己の内なる声を聞くのだ。

心に想う。己の深いところにある一念を発見するのだ。

私はこの北大路欣也演ずる空海のコトバを聞いていて、思いました。

「なーんだ、これってカラダを張って生きていると、全て自然に起こることじゃないか!

密教っていうのは、カラダを張って生きるってことだったんだ」

そしてこの私の気づきを松永師に伝えると、彼は

「その通りだ!密教僧たちが密教の本質を理解しないのは、彼らが密教の行法を単に「自分の仕事だから」「自分は僧侶の息子で寺を継がないといけないから」といった理由でやっているからだ」と言いました。

●「本物の時代」から「本気の時代」へ

つまり、カラダを張って取り組まない限り、物事の本質は分からないし、神秘的な感受性も開くことはありえない、ということなのです。

「本物の時代」というコトバがあります。これからは「本物の商品、本物の会社が生き残り、支持されていく」という意味です。しかし、私はこれら一連の会話と気づきから「これからは本物の時代ではなく本気の時代だ!」と思い至りました。

いくら商品が本物であっても、人が本物であっても、それに関わる自分自身が本気で当たらなければ、何にもならない。本気で取り組む、カラダを張ってやる、こうしたことが非常に重要な時代が21世紀なのではないか?そう思えたのです。

 

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